« October 2005 | Main | December 2005 »

「春の雪」見ました

春の雪~清顕と聡子の追想物語~


 三島由紀夫原作、行定勲監督の映画「春の雪」を見てきた。
 映画化が決まってから注目していた映画であり、公開後は賛否両論けっこうあったので迷ったけれど、映画を見るためにわざわざ原作を再読したので、やっぱり見てきた。

 行定勲監督の映画は最近では「世界の中心で愛を叫ぶ」を見たが、これは原作よりもよかった。まあ、そんなこともあり、三島の大作を2時間でどこまで表現できるのかというが最大の注目であった。

 いくつか独自のエピソードがあるし、多少はアレンジしているが、基本的には原作をそのままリメイクしている。ぼく的には合格点である。

 ただし、原作が読みながら涙がこぼれる作品でないのと同じく、映画も見ていて涙が出ることはない。観客席からもそのような雰囲気や音はなく、ひたすらシーンとしていた。ポップコーンひとつ食べる音も気になるくらいに。
 ただ、あとを引く作品である。

 以下はネタばれあり。

 冒頭の幼少時のシーンで、百人一首の崇徳院の歌(瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ)が使われている。この歌の意味が分かる人なら、これを出すだけでも十分だが、このとき清顕と聡子がそれぞれ持って帰った取り札と読み札は、大阪行きの列車での別れのシーンで効果的に使われている。これは原作にはないエピソードであるが、わかりやすいと思った。
公式サイトの右下に「百人一首カルタゲーム」がある意味がわかった。

 本編冒頭の松枝邸の池のシーンは原作をよく再現している。しいて言えば、スクリーンで初めて見る本多繁邦役の俳優の体格が原作イメージとは違い、がっちりしすぎという印象。本多は原作「豊饒の海」全編の語り手となるが、「春の雪」でなぜ彼があれほどまでに友人松枝を助けるのかは原作でないとわからないだろう。あんな善人がいるのか、という印象を、映画ではじめて「春の雪」に接する人がもつのではないかと思う。

 主演の二人はよくでき演じている。妻夫木はわがままで子供の清顕をよく演じているし、竹内結子も上流階級のお嬢様の雰囲気をよく出している。特に聡子の人選は成功だと思う。最近の女優の中では他には人材が居ないと思う。

 原作で登場する松枝家の書生・飯沼は出てこないが、この役は松枝家執事・山田と綾倉家の蓼科が分担しており不自然さはない。孫の不祥事を「さすがおじい様の孫」と賞賛し、奈良への旅費のために遺族年金を盗む清顕を見逃す祖母を演じる岸田今日子はあの不気味さがはまっている。この部分も映画独自のアレンジであり、原作では旅費は本多が立替えるのだが、遺族年金を使わせるほうがより自然である。

 冒頭のシーンで2つ年上の聡子が犬の遺体を回向するための花を摘むが「清様も手伝って」とねだる。雪の朝「清様と雪をみたい」と馬車で松枝邸にやってくる。このあたりから清顕の聡子への気持ちが捻じれていき、宮様との婚約その後の悲恋になるのだが、このあたりも原作どおりよく描いている。

 清顕と聡子が最初に密会するシーンでは、清顕の脇の下には3つの黒子がきちんと描かれていた。この黒子は原作シリーズで転生の印とされるものなので、読者向けの監督のサービスだろう。いや、次回作への布石かもしれない。

 鎌倉で大仏にひざまずくシャム王子の説明はあまりないのでやや唐突な印象がある。一方、海辺で抱き合う清顕と聡子が転生の話をするのは読者サービスというよりも監督の三島への言い訳のように見えなくなくもない。

 月修寺の紅葉はあまり気にならなかった。紅葉をつかっている(しかも人造の葉でそろえたらしい)というので見事な紅葉シーンが展開されるのかと思ったがそうでもない。

 若尾文子の門跡は見事だった。印象的である。清顕、聡子に続く3人めの主人公だろう。

 原作でも最初の池のシーンから登場し、クライマックスで重要な役割を果たす、厳しい戒律に生きる尼僧だ。
 門跡は「春の雪」では聡子の大叔母であるが、完結編「天人五衰」では出家した聡子本人が門跡となっている。そして本多に「松枝はんという方は知りません。本多さんも本当にお会いになったのですか」と人間の存在そのものに疑問を投げかけるシーンでこの大作を終える重要な役である。
 そんな門跡に存在感があり、70才を越えてなお美しい若尾文子はぴったりである。

 最後の「また会うぜ、滝の下で」もたしかに映画のストーリーからいえば本多ではなく聡子と会うということになるので原作とは大きな意味の違いがある。特に鎌倉で転生を語るシーンがあるので、生まれ変わってまた聡子と会う、という意味に無理に(うまく?)仕向けているようだ。
しかし一話完結としラストのつがいの蝶のシーンにつなげるにはあの展開しかなかっただろう。原作未読の人にはなんら不自然は感じさせないし、原作を知っている人は、台詞を変えずに意味を摩り替えた手法をどのように評価するかは、見る側の自由であり権利だろう。

映画「春の雪」オリジナルオリジナル・サウンドトラック

春の雪 VISUAL BOOK


春の雪


| | TrackBack (2)

江上剛「異端王道」

異端王道

3連続でちょっと恐縮だが・・・江上剛「異端王道」を読んだ。
長銀が破綻し、国有化され、いわゆるハゲタカファンドに売られ、トップが元シティバンクの八城氏になって新生銀行として再上場するまでのストーリーである。江上氏の小説で初めての明るい文調で、ハッピーエンドで終わる。
 総会屋事件でぼろぼろになる銀行の話である「座礁 巨大銀行が震えた日」を読んだすぐあとで読んだのでふたつの小説のトーンのあまりの違いに驚く。
 危機感のないトップと明確な意志を持つトップの差、泥臭い銀行とおしゃれな外資系の差。
 まるで新生銀行の広報部が書いたのではないかというような小説になっている。

 長銀の破綻とその後の国有化については以前にどこかで読んだことがあるが、特に国有化時代のレイムダック状態がかなりひどかったようだ。その書籍では破綻前の経営層もひどいが国有化時代が不作為という意味ではさらにひどかったと書かれていたことを覚えている。
 
 新生銀行はかの有名な「瑕疵担保特約」を使い、資産譲渡以降に2割以上資産価値が下がった案件を預金保険機構に買い取らせ、また邦銀が始める前にいわゆる貸し剥がしに邁進し、収益を上げていったことは有名である。ITの面では八城社長がシティバンクからIT担当のインド人を連れてきてシティのノウハウを駆使して、汎用機を使わず、UNIXでもなく、なんとWINDOWSサーバーですべての業務をこなすシステムを作り上げたことで有名だ。
 そういったよく知られた部分も描かれているが、回収部隊の苦悩とともに、新商品開発や企業再建業務の苦悩と喜びも描かれている。そして複数のヒーロー・ヒロインが登場するこのドキュメントでもっとも登場回数が多いのが社長である。けっして長時間(ページか)登場するわけではないが、社員食堂で新人と直接語り、効果的なアドバイスや具体的な行動をしていく。「巨大銀行」ではありえないことであり、トップの行動と意志が会社を作ることの典型である。

 題名の「異端王道」の「異端」とは外資系ファンドに売られた銀行そのものを指し、日本人ながら外資系でのまっとうなビジネスを経験している八城社長もさすのだろう。「王道」とは、「異端」の銀行が行ってきたことこそが銀行としての「王道」だという著者の思いである。

| | TrackBack (0)

江上剛「座礁 巨大銀行が震えた日」

座礁 巨大銀行が震えた日

江上剛「座礁 巨大銀行が震えた日」を読んだ。

先日、こちらで「いつか江上版「金融腐食列島 呪縛」を書いてほしい」と書いたが、それがこの本だった。

 ただし、映画「金融腐食列島 呪縛」が、強制捜査直前から新体制発足までの道のりを描いたのに対して、本書は、広報部次長(江上剛自身)が新聞記者の記事から問題融資の存在に気がつき調査を始める頃から強制捜査とその後の記者会見と後継者選びまでを淡々とドキュメンタリーに近い感じで描いている。すなわち映画版(=高杉良版)の「呪縛」の前編だ。ドキュメンタリー風になったのは小説の内容が事実にかなり近いためにかえって脚色しようがなかったのではないかと思う。

 問題融資を問題ないという顧問弁護士とそれに安心する経営陣に、真相究明を迫る映画の冒頭の有名なシーンや強制捜査後の記者会見で使った「呪縛」という言葉ができたようすなども描かれている。

 だが、「座礁」した銀行が再出発するための新頭取選びに苦悩したままで本編は終わり、エピローグになってしまう。なんとも尻切れトンボな印象である。この後には映画で知られたような闇の勢力との訣別のための壮絶な戦いとなるはずである。あえてその部分をはずしたのは、そのストーリーがすでに語られてしまっていることもあるだろうし、本編と同じレベルでドキュメンタリー風には描けない理由もあるだろう。

 しかし本当は、いったんは危機を乗り越え再生した銀行が、喉元を熱さが過ぎた後の銀行の姿を知っており、それを書きたくなかったのではないか、そんな感じもした。で、ちょこっとググッてみたら、江上氏の興味深いインタビュー記事があった。前半はこの本に書かれた経過、そして後半がその後である。
 興味深く読み、妙に納得してしまった。

| | TrackBack (0)

江上剛「腐食の王国(上下)」

腐蝕の王国〈上〉腐蝕の王国〈下〉

江上剛「腐食の王国(上下)」を読んだ。
相変わらずの銀行内幕ものであるが、うまくなったなあ、もう少しで高杉良かな、という印象。
銀行名などで明らかにわかるモデルが多いのは変らないが、フィクションならでは「そんなことふつうできないよ」という人物設定も小説としては良い。もちろんできすぎの部分もあるが、それは逆に読者が期待しているのでいいだろう。何度も見た映画のように、これからきっとこうなるなという推測がそのとおりになるのを見るのは読者として悪い気がしない。

惜しむらくは結末のドタバタ。このあたりのストーリー展開はまだまだ雑である。時間的に急激な転換をゆっくり書いて欲しい。司馬遼太郎のように、ストーリーテラーが突然、解説者あるいは傍観者になってしまってもいいのだが。そのくらい前振りがあって大団円に入ってほしい。

いつか江上版「金融腐食列島 呪縛」を書いてほしいが、それだけは無理かな。

| | TrackBack (0)

« October 2005 | Main | December 2005 »